山伏修行、満行しました。

先日の10月26日、今年も鳳来寺山へ山伏修行体験に行ってきました。
2022年にキャリコン山伏渡辺清乃さんが開いた愛知県の修行場(行場というそうです)である鳳来寺山に参加するようになり、今年でなんと3度目になりました。
鍼灸師の私がなんで山伏修行を?と思う方もこれを読んでいる方の中にはたくさんいらっしゃると思います。
元々の私は運動大嫌い、鍼灸師という仕事柄立ち仕事のようにも見えますが、本当に怠け者で運動なんて大人になってからしなくていいのが喜び!とまで思っていた私が、毎年山に入るために仕事を休み、修行をするなんて・・・。自分でも笑ってしまいます。

2年目の修行の時のもの。私もいるけど見つかるかな??


初めて参加した山伏修行は想像していたよりももっとずっと辛くて、苦しくて、でも自分の内側から湧き上がる生きている喜びのようなものが忘れられなくて、あぁ、私はこういう体験をしたかったんだ。と心から思い、こんな時間を一年に一回は持てる生き方をしたい。
そう思ったのでした。2度目の修行のについては昨年も書いています。山伏修行を終えて思う事
毎年見える景色が変わり、修行の中の気づきは違うものになります。
だからこそ、毎年行く修行は同じじゃない。それが1番大きい気づきになります。

今回の修行は本当に準備ができずにいて、このまま修行に行って大丈夫だろうか、私なんかが行ってもいいのだろうか・・・と行く前はなんとなくソワソワしていました。
もっとやれることがあったはずなのに
・暑いから無理
・時間が作れないから無理
・今やらないといけないことが他にある
などなど、ウォーキングしたり、山に入ったりすることはないままに当日を迎えます。
例年ご一緒していた方達が1人減り、2人減り・・・。心細い
修行は自分のためにするもの、各々が自分の修行をするということは頭では分かっているはずなのになかなかそういう気持ちになれません。苦笑
今思うと、頭で考えて勝手に不安になっていたのだと思います。修行は頭の中で考えたり、答えを出すことではなく、気づくことだというのに・・・。

朝5時に起きるのも不安でした、初めて参加した年なんて8時にガバっ!って起きて
「ヤバい!寝坊した!!!」と思ったら二日前だったりして。苦笑
今年はもうそろそろかな?と起きたら4時でした。相変わらずです。笑
5時56分の電車に乗り、2度乗り換えながらお迎えのくる「大海駅」まで行きます。J R飯田線という電車で1時間に1度くらいしか電車が来ない・・・。つまり乗りかえに失敗したり、降り損ねると危険・・・。電車で眠くなって爆睡する私は本当に危険なのです。
今回も2度ほどヒヤっとしましたが無事に到着しました。

山伏修行はどんな修行をするのか言わないのが「お約束」なのですが、口外してはいけない理由を皆が同じ山で修行するけれど、各々の修行であり一概にこれ、ということが出来ないからだと理解しています。山に入り一緒にお経を唱え、祈りを捧げる。
誰の修行も邪魔することなく、自分自身と向き合うこと。今年の修行は不思議と申し込む時から事前まで不安にはなるけど「ずっと」不安ではありませんでした。今のこの状態を「うけたもう」するのだと自分に言い聞かせながら、石段を登る時も、息が上がって苦しい時も、足がぐらつくときもありのままの自分を誰かと比べず、うけたもうしていました。
そんな私が今回の修行で気がついたことは、自分が満たされていないと誰かのために頑張ったり、祈ることは出来ないということでした。自分が今幸せだから、誰かの心に寄り添うことが出来る、私を大事にして出来ることがある。
他の誰かのために心を込めて祈れるというのは、自分が満たされていて幸せだからなのだ。
という事が改めて心の中に残りました。
途中、先達率いる前集団とも後方集団とも離れて本当に1人で山を歩いている時、なんて私は幸せなんだろう。1人なのに、不安も怖さもなく、満たされて一歩一歩足を前に踏み出せている。この修行を進めるのも誰かに助けてもらったり出来ないを意識するわけなく、自分がただ前に足を出してしか終われないことを。山伏の修行は山で一度死を迎え、そして生まれ変わる。その死を初めて心からうけたもうしたような気がしました。
1年目や2年目には全くない感覚でした。

山に入る前の私、耳がちゃんと立ってる!!

修行、というと苦しく、辛いもの
私は弱いから無理。という声が聞こえてきそうです。(実際聞いたことは何度もあります)
そんな苦しく辛いことをなぜ好き好んで抽選にドキドキしながら申し込んだり、足の爪を失ったり、不安と闘いながら参加しているの?とこのブログを読んでいる方の中にもいると思います。
修行=辛いもの
では決してありません。
それは私にとって、死=怖いもの、苦しいもの、辛いもの ではないことを身を持って体験していることのような気がします。
自分の魂が磨かれる、自分の内側と対話する普段の日常では得ることがない機会なのだと今は思います。(3回の修行をもって今私が持ち合わせている私の気づきです)
修行でしか得られないことがある。そしてそれは毎年1度くらいは味わわないといけないもの。と私が感じている事なのだと思います。
本当の山伏になるための修行についてはまだ心は向いていないですが、この鳳来寺山での山伏修行は来年も、もっとその先も申し込んで行ける限り「うけたもう」し続けたい修行です。

修行の相棒金剛杖。この子にも色々気付き

山登りやハイキングにはちっとも興味を持てない私が修行のためなら、山にも入り、歩くようになり・・・。今年は日常的なウォーキングや山歩きが今年の修行を支えてくれたのかもしれません。
ちょっとずつへなちょこだった体力や脚力もまぁまぁ成長しているのかもしれません。
でも、今回、星野先達の足を見て、腰の鈴の音を聴いて、一歩一歩を丁寧に自然に足を預けるように歩けるようになりたいと思いました。
まだまだ、普段のお里の行に励まなくては!

修行のあとで、もう一方でも歩けない・・・けど心からの笑顔。清々しい・・・耳が垂れて限界を示しています


修行とは面白いもので、うまくならなくても、上達しなくてもいいのです。ただ、気づく機会をもらっているだけ、だから息も上がらずスイスイ山に入る人が修行出来ているとは言えないのかもしれないな、とふと思いました。目的や目標を達成するために修行するのではない気がする。
辛くて、苦しい、運動をしない私のようなへなちょここそ修行で多くのものを得られているのかもしれない(すぐ限界に達するから。笑)
今回の山ではそんな事を思いました。

元々は一冊の本との出会いがこの山伏修行に参加するきっかけになりました。

https://amzn.asia/d/2eleF6h

読んでいる間、私も山を登っているような気持ちになり、修行してみたくなった魂を探す旅のきっかけになったとてもとても大切な本です。
私のブログでは伝わりきれない素敵な言葉の数々をぜひ手に取って読んでほしいなと思います。
そして、いつかこんなへなちょこな私と一緒に山で山伏修行出来たらこの上なく嬉しいなと思います。

2年目の修行のあとの「直会(なおらい)」にて星野先達と清乃さんと一緒に。当たり席でした。(そして実は今年も当たり席を引きました)