山伏修行を終えて思う事

 今年も10月に二度目の鳳来寺山にて開催された山伏修行体験に行ってきました。
無事満業いたしました。修行体験当日は天気も良く、今年は一緒に学んでいる鍼灸師のお仲間も参加してくれたり、知っている顔もちらほらあってとても楽しい時間になりました。
山伏の修行はどういうものなのかを話す事は禁じらているので詳細は避けますが、修行は「無言行」と言って、言葉を喋らずに行うものです。
一人ひとりが山に入りそれぞれの修行を行う。
これは誰かの為ではなく、紛れもなく私の為の修行。
その事を一歩一歩歩みを進めながら感じていました。
昨年同様、苦しくて苦しくて、すぐ息が上がる自分が情けなく、悲しくなりながら進んでいきました。
途中、途中で勤行でお経を唱えたり、祝詞を唱えます。
そこで息が整っていきます。そして、また修行が出来る。それを繰り返す感じです。
しかし、今年は序盤こそ辛かったのですが、後半は景色を見たり、周りの方の足取りを参考にしながら修行を進めることが出来ました。

昨年はとてもとても苦しくて、道も岩も、木々も味わう事が出来ずにいましたが、今回は前半、とても辛かったのですが、後半辺りからふっと体が軽くなり、土の香り、木々の音、木漏れ日の暖かさ、自然の中で修行をさせてもらっている。
そんな気持ちになりながら、一つ一つ石段を登りながら私は頭でそして心で思いました。
こうやっておやすみを頂き、愛知県だから参加することが出来る事。行きに車に乗せてくれる方がいて、朝昨年ほど早起きしなくて済んだこと。何より健康な体があってこそ出来るという。
全ての事が当り前ではないという事に自然と湧き上がってきた感謝の気持ちでした。

もう一つが、修行は各々の修行だけれど、先達に自分の体を預ける、身も心も他の誰かに委ねる。という事に気がつきました。先達の動きや声、周りの人の空気を感じ、その人たちに身を委ねる事。
周りの空気に合わせる事は決して悪いことではないのだと思いました。
序盤、昨年よりも苦しくて、もうダメかも・・・去年行けたのに、今年はこんな早くに脱落しそうになっている・・・と心の中はとても苦しくて

自分で決めて登っているのにこんな苦しいことを選んでやっている自分

当たり前なのですが、自分で決めてやっていること
それがこんなにも苦しい。
その体験を私は必要としていたのかな、とその時も、そして終わった後も感じました。
子供の時って理屈なく、理不尽なものやことがあって、傷ついたり、自分が情けなくなったりしていたなと思います。子供の頃は特に体が弱く、運動が出来ないどころか、夜になると喘息の発作が出ては眠れなくなったり、膀胱炎が治らなくて、なんで私はこんなにいつも夜寝られないんだろう・・・と思って泣いていました。
泣いても解決しないと頭では分かっていながら、何も出来ない。そんな苦しさがある幼少期でした。
周りの子供が(妹や弟ですら)出来ていることをするのが怖かったし、出来ないことを諦める勇気もない。自分が違う体で生まれて着てたら・・・そんなことも思っていた気がします。(少しずつ元気になっていって、子供の頃の惨めな気持ちは薄れてきているので、今はそんな気がする。ってレベルになりました)


こんな弱い体でなのに、体調を大きく崩すことなく山に入って修行ができるのだから、やはりそれはありがたいことなんだと思うのです。弱い自分も、自分に嫌気がさす自分も、改めて私なのだと。
それはどれも当たり前ではなく、ありがたい。
今、私が生きているから出来る。
感謝の気持ちでいっぱいになりながら
今回は終わった後、少し拍子抜けしたような、あれ?こんなに楽だったっけ?(いや、去年と比較して)
という気持ちになったのは私の体という入れ物が成長したからなのでしょうか。

今年はとてもじわじわとあの時の学びを感じ
体一つ一つに染み渡らせたような感覚があります。

きっと来年も私は山に入るのでしょう。

修行があることで私は私らしくいられる。そんなことを思ったのでした。

先達の法螺貝を吹く姿は見ていても、音を聞いていても
心がシャン!とします。